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小骨が喉に刺さるような日が続いたら。

こどものころ。
 
食卓に、焼いたニシンが並ぶと苦々しい思いで睨みつけていた。
骨が多くて、脂っぽいニシン。
 
味は好きだけれど、箸が使い慣れない時期どうしていいか分からなかった。
 
だって、食べていると何だか小骨が喉に刺さっている気がするのだ。
いやいや、食べていくと案の定喉がじくじく気になっていく。
そんな時、焦って水をのんだりつばを飲み込んだりしてかえって気持ち悪くなっていた。
 
イワシも、ししゃもも、アジも味はいいけど何だか小骨がきになる。
 
喉に小骨が刺さるようなかんじ。
そんな、微細で微妙な痛みや違和感。 
 
それは、日常にもある気がする。
 
先送りにしているタスクたち。
自分の奥にある欲求、欲望。
向き合うのをためらう、ちいさな自分。
痛くない、深くかわさない会話。
  
必死に生きて日常とルーティンを重ねていくには、そういう過程も勿論必要だ。
 
そういう毎日を重ねて、悶々とするからこそみえていくものがある。
うんと若い頃は、特効薬ばかり探して刺激にさらされ却って混乱していた。
 
ただ、小骨が喉にいつまでもいるような小さな違和感は緩やかに自分を蝕んでいく。
 
少しでも快適に、軽やかにいくなら。
向き合って淡々と行く中にみえるものもある。
その中で、少し傷んでも日々の積み重ねが味方になる日もある。
 
そうしたらまた、きれいな喉で話したり唄えるのかもしれない。

続:珈琲との美味しい関係


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いつかのブログで、珈琲は外で飲むもののような扱いをした。
 
ところが、だ。
 
我が家に、一気に珈琲の道具が増えた。
ハリオの円錐型のドリッパー。
それに合わせたフィルターに計量スプーン、コーヒーサーバー。
コーヒーポットもハリオ
そして、ハリオのミルクフォーマー。
 
きっかけは、酔狂な旦那さんが完全無欠コーヒーというのを飲みたいというから。
後に、彼は短期間ですごく痩せて、付き合った私はお腹を壊してすぐ中止したのだが。
 
珈琲の話に戻る。

なぜ、ハリオだらけなのか。
適当に選んだ雑誌を参考に、初心者でも淹れやすいというハリオの円錐型のドリッパーにしてみた。
珈琲豆は、愛してやまない近所の私の中では珈琲の概念を変えた美味しい店のものだ。

ところが、だ。
 
そこのお店は、ハリオのドリッパーではないものを使っていた。
そのお店監修のドリッパーとコーヒーポットがあったのだ。
最初、味の違いなどそうないと思っていた。
 
ところが、だ。

ドリッパーの形状でかなり味が変わるのには驚いた。
もちろん、淹れる者の技量は大いに関係するだろうが。
(たまに仕事でも淹れていたはずなのだが、そんなことすっかり忘れている)
それでも、ハリオはスッキリ淹れられるのに対してそこの店のは少し濃厚に抽出される。
 
違いに気付いていくと、こだわっていきたい自分にも気付く。 
 
きっと、豆を挽くミルも買ったらもっと美味しい珈琲が淹れられるにちがいない。
そんな風に妄想して、少しずつのめり込んでいく。 
 
色々調べているが、魔のイヤイヤ期突入の息子がいて手で挽くのは難しい。
電動のミルを調べていくと、小型のものはあまり評判がよろしくない。
 
どうしたものか。
 
仕事の時つかってきた、鈍器のように重たい重たいカリタのミルならきっと、美味しいのだろうなぁ。
なぜ、あの時こんなにハマらなかったのか。
 
きっと、義務ではないから愉しくなっている気もする。
あの時ほど、力を込めていないし。
 
そんなことを今日も考えていくうちに、珈琲が出来ていく。

「ちゃんとしてるひと」より愉しいひとがいい

エッセイ
ずっと、長い間。
 
「ちゃんと」しなくてはいけないと思っていた。
いまのダメな自分から、変わらなくてはいけないと思っていた。
 
ところが、息子が生まれてから余計に不完全なところばかり目立つ。
怒るし泣くし、大声で叱るし、家事は中途半端でちっとも「ちゃんと」なんて出来ていない。

大人になったのに、子供の頃のちゃんと出来なくて叱られている自分がひょっこり顔をのぞかせている。
 
今朝も、ちゃんと出来ないことにメソメソしていた。
三十路手前の、子持ちの女があさから。
 
すると、旦那さんから衝撃の一言が投げられていく。
 
「さっき、テレビで観たよね?

変化しなくていい、手を加えて行くから番組がおかしくなる
しわしわの落語家さんが言ってたよ。
 
変化しなくていい、自然と変化していくから
 
出来なくていい、だって出来ないから
 
ちゃんとしなくて、困らない
困ったら、やればいい
頑張るから、頑張れない
 
ただ息子と仲良くして、テレビみて嵐!と喜んでいればいい。
 
愉しんで笑っていたらいい。
だって、ちゃんとなんて出来ないから。」
 
彼は、繰り返し、出来ないから、と言っていた。

あまりに、出来ないと開き直れない意固地な自分を晒されて驚嘆した。
「ちゃんと」という曖昧な言葉に縛られ続けている事にも吃驚した。
 
第一、ちゃんとって誰のためでどんなモノであるのか。
 
「ちゃんと」出来なかったけれど、いちおう生きられている。
しっかり、今日のきょうまで生きている。
 
そう思うと、「ちゃんとしてるひと」より愉しいひとがいいなと思った。
三十路手前、まだ人生は長いから、愉しいひとでいたくなった。

ほどほどの不自由がココロの自由

エッセイ 子ども
「学校」が苦手だった。
集団で動いたり踊ったり発表したり。
顔が真っ赤になる。
 
ひとに合わせるのが苦手だ。
なので、どこでも「空気」が読めない。
ちぐはぐな行動をして叱られていた。
 
何もかも決まっていて、「学校」は不自由で嫌いだった。
小学校の可愛くないお裁縫箱の柄も。
高校の制服のダサいブラウスも。
 
早く自由になりたかった。
 
大人になると自由になれるし、その方が快適だと信じて疑わなかったあの頃。
 
ところが、いまの生活はどうだろう。
こどもがいると、制約だらけで不自由の連続だ。 
 
水遊びが好きな息子にハグをせがまれると、とたんに泥だらけになる。 
だから、家で洗える服ばかり。

きらきらしたものは何でも触りたいから、少しのアクセサリーしかつけられない。

お酒を飲みたいしこじんまりしたお店に行きたいけれど、そういうお店は大抵子連れお断りだ。

夜遊びが好きだったのに、夜の9時頃にはだんだん眠くなっていくし預けることが難しいのでほとんど行かない。
 
体内時計がしっかりしているのか、朝ごはんは7時でお昼ごはんは11時半、おやつは2時すぎ、夕ごはんは5時すぎ。
それに合わせてお昼寝やお出かけの予定も組み立てていく。
 
そして、息子の行動は突拍子もない。
大抵のこどもはそうだし、親も初心者なので仕方ないが。
予定は1日ひとつかふたつと決めている。
スーパーに行くのでさえ、大騒ぎだ。
 
それなのに、あの頃よりも。
制服を着て、学校に通っていたころより。

もしかして、ワックスで髪をがちがちにかためて慇懃無礼に接客してた頃より。
 
いまの不自由な生活のほうが、ココロが自由だ。 
 
規則正しい生活の合間に、好きなものに囲まれて家事をしていく。
早く寝るし早く起こされるから、体調がいい。
昼寝してくれたり、のんびりしている隙におやつを食べる。
ひとつ、ふたつしか予定を入れないからかえってゆっくり構えていられる。
 
不自由なようで、強制されることが少ないせいか。
それとも、ほどほどの緊張が少ない規則正しい生活で体調がいいせいか。
 
もちろん、怒ったり悲しんだりもするが去年から自分と向き合い続けてモンスターを飼いならして波を少なくしているせいかもしれない。 
自分が変わると、モノや事象は変質しないがかわるものがあると私は信じてる。
 
まだ、この心地よさの理由がつかめないがこの流れに乗っていきたい今日この頃だ。

流れる本棚。

エッセイ 家事
ひとつ入れたら、ひとつ減らす。
 
これは、私のお片づけの信条だ。
信条に基づいて、キッチン用品から服、色々なものを整理している。
 
ただ難しいのが本棚。
 
とっておきたいもの、手元においてただ眺めたいもの、どうしても紙の本のカタチとして読みたいもの。
小さい頃から本によって育てられたものとしては切っても切れない関係だ。
 
ただ、本は愛着あるものでもあるが知識や考えを補うものでもある。
その知識や考えをブラッシュアップしていくには、ずっと同じような本ばかり手元にあるのもモヤモヤする。
 
なるべくなら、本棚の新陳代謝は良くしておきたい。
流れる、本棚。
それは、知識や考えをみずみずしいものにしておきたいという願望。
 
特に、春は新しいことが始まっていくそわそわした空気に押されていく。
そして、本棚の前で逡巡する。
 
いまの私が読みたい本は?
どんな自分でありたい?
 
そうして出来上がった本棚を眺め、本を手にとる時間が好きだ。
 
ただ、愛用してるKindleアプリではそういう潔いことが出来ないのが何とも言えない。

アンテナを張り過ぎると、どうなるか

エッセイ
最近、からだが情報を絞って入れてるなぁととみに感じる。
 
本の類は、雑誌や読みやすいものをパラパラ眺めるだけだ。
ネットも、息子が目を離せないのもあり観る時間が減ってる。
テレビにいたっては、朝ドラとEテレくらいしかみていない。
 
本は、早く読むほうで気になるものは小説も専門書もなんでも何冊も読んでいたし並行して漫画もたくさん読んでいた。
ネットは、自称ゆるふわネットウォッチャーなのに暖炉の燃えカスのようなものしかウォッチしていない。
テレビは、とにかく俳優やらアイドルが好きなのでドラマやらそれに付随する番組を観ていたがいまは全く観ていない。
 
そう考えると、今までたくさんのモノにアンテナを張り巡らせてすぎていたのだ。
 
アンテナを張り過ぎると、どんどん頭のなかに情報がぐるぐるまわって処理し切れなくなる。
それに、情報が多いということはそれだけ良いものもあるが悪いものもありノイズが出てくるのだ。
 
きょうみたテレビの掃除方法で禅の手法を取り入れるものがあるそうだ。
部屋が汚いのは、頭が混乱しているから。
それを解消するために、自分の欲求を日記にしたり数秒掃除を毎日するというものだった。 
 
掃除ではないが、情報のインプットアウトプットもこれがヒントに出来るのではと思って視聴していた。
 
意図的に絞っていき、自分の欲求や状態を認知しながら「無い」ものを求めていくより「在る」ものに目を向けていく。
そして、心地良いように整理してアウトプットしていく。
 
インプットを過度にしていないか、アウトプットの出力が大きすぎやしないか。
そこも深めていきたいところ。
 
いまは、インプットの量や出力が意識しないと流され飲み込まれていくほど情報が多い世だなぁとおもうこのごろだ。

「生して殺すなかれ、与えて 奪うなかれ、賞して罰するなかれ。」のさきにあるもの

愛読している、鍼灸師の若林理砂先生のメルマガ。
日々の養生のヒントがたくさん書いてるので、産後から購読してる。
 
最近来た春の養生のメルマガには、
「生して殺すなかれ、与えて奪うなかれ、賞して罰するなかれ。」
とあった。
先生曰く
「生かして、与えて、褒めて伸ばすように大らかに過ごすように」
という意味だそう。
 
思い返すと、生育歴や行動でいつも緊張感ばかりもって生きていた。
大らかにゆったりと過ごすのは、私にとってとてもむつかしいことのように思う。
 
ただ、そういう緊張感を持ち続け何事も独りでこなしていくには。
私には、何もかも手一杯だなと子供をもってやっと気付かされた。
今までだって、独りで抱えようとしてかえって周りと軋轢を生じてきたのだ。
 
もう、手放そう。
 
そう決めて、去年から何度も「井戸掘り」に行った。
来る日も来る日も、藻掻きながら、降りて降りていった。
降りた先で、緊張感が抜けてやっと自分のやれることの限度と過敏さ、そして疲れを自覚した。
 
なぜこれを、独りで全てやろうとしていたのか。
自分の愚かさに嘆くこともあった。
  
そして、多くの刺激にさらされ求めかえって疲れ動けなくなっている自分。
同時に、刺激や入ってくるものを絞っていっても満足出来ることを知った。
 
手放していくと、「自分の仕事はなにか」という私が大好きな物書きの倉下忠憲先生の問を思い出す。
 
いまはゆるゆる、自分の領分の範囲でやればいい。
 
少しずつ、春が近づく。
 
ゆったりしていく先になにがあるのか。
 
新しい春がはじまる。