娯楽としての読書

小さい頃から、本が好きだった。
 
休み時間になれば、本をなるべく読んでいたかったし図書館にもよくいた。
 
中学生になると、家の吹き抜けの壁いっぱいの父の本を読み友達と本の貸し借りをして感想を言い合っていた。
東京に出てくると、本の著者に会える!と嬉しくなりミーハーなので講演会だのサイン会だのにも行った。

子育てする前は、よくかばんに本を入れていた気がする。
飲みに行くときも、口紅とハンカチと文庫本があればよかった。 
Kindleが出てきたときは、興奮して勢いよく買ってしまった。
 
いまでは読む時間がめっきり減ったが、それでも子どもが寝静まると少しずつ読み進める。
ひとりのお出かけの時、電車を待っているときにも読んでしまう。
 
時間が空いていれば、読む。
愉しいから、手が伸びてしまう。
 
多くのひとにとっての、ゲーム。
あるいは、スポーツや観戦、手芸、食べ歩き、なにかを鑑賞したり描いたり。
そういうものと一緒だ。
 
それは、自己研鑽でなく娯楽としての読書だ。 
 
つい最近、読書するとしないとでは差が出てくるなんてネットの記事があった。
また、お受験ノウハウを売るママがたくさん読み聞かせをしたというものをみたことがある。
確かに、読書には知識を増やしたり考えを深めたり自分を鍛えるところもある。
 
なんだか世の中には、そういうのが読書だと思っている人もいる気がする。
というか、そういう方が言及しやすいのかもしれない。

ただ、それだけではない読書もある。
ひたすら読んでいて愉しい!という読書だってあるのだ。
 
先が気になりすぎて、ページをたぐる手が焦ってしまったり。
感情移入して、嗚咽がこみ上げたり。
知らない世界がどんどん広がったり。
電車の中なのに、くすくす思わず笑ってしまうものも。
 
自己啓発としての読書は、ありだ。
でも歓びに舵をきっていく、娯楽としての読書だって十分在るのだ。

スニーカーのゆるさ、ヒールの緊張感。

私には、贔屓目かもしれないが格好可愛くて良くて気立てのよい妹がいる。
 
最近、焦げ茶やゴールドが混じった髪色で少し刈り上げにした彼女は以前にもまして格好良くなっている。
そしてボーイッシュに磨きのかかった彼女は、誕生日に伊勢丹でドクターマーチンを購入したらしい。 
 
好きな西村しのぶの漫画やこれまた男前な従兄妹が履いてるのしか見たことがないか、彼女にとても似合っていると思う。
それくらい、どこか厳ついけれど手入れが必要な格好良い靴だ。
今のノームコアというシンプルな服装の流行も相まって素敵。
 
そんな妹を持つ私の今の靴は、ニューバランスのねずみ色のスニーカーだ。

ちょっと前までスニーカーが大嫌いで、ヒールは8センチと決めていたのに。
甲高で幅の広い足のくせに、ピンヒールを背伸びして足を痛めてまで履いていたのに。
特に、「愛され系」が流行った頃にどっぷりおしゃれにハマっていたのでどうしても選んでしまっていた。
 
ところが子どもが産まれたら、ピンヒールなんてもってのほか。
ぺたんこのパンプスですら、踏ん張りがきかないのに気付かされた。
もちろん流行もあるが、離乳食で拭かれても平気な洗いざらしのシャツやら無印良品のジーンズとなるとパンプスは格好がつかなくなってくる。
 
そして、スニーカーのゆるさがたくさん子どもと歩ける自分と快適さをくれて何処まででも行けそうな気がしてくる。

ただ、おしゃれには自分の快適さもあるが装いは贈り物のような側面もある。
 
私がお酒をまた飲めるようになったら行くと決めてる幾つかのバー。
特に故郷の伝説のバーテンダーがいるところはドレスコードがある。
きっと、背筋が伸びる強いマティーニには、ヒールの緊張感が必要だ。

イマを漕ぐ

晴れた日は、約9キロの子どもをおぶって片道20分ほど自転車を漕ぐ。 
 
おかげで、産前の体重に戻ったし風をきって走るととても気持ちが良い。
今では、漕がないと気持ち悪いくらいまでになっている。 
運動後のプロテインも習慣になっている。
 
思えば、初めて自転車に乗ったのは小学生くらいから。
それから通学などで使っていたが、何故か人を追い抜く運転ばかりしていた。
無茶してかえってスピードが出なかった。
ずっと追い立てられるような、力むような運転をしていたと思う。 
 
ただ、子どもをおぶって漕ぐとそんな力んだ運転はすぐに疲れてしまう。
追い抜かれても、何も変わらない。
比べても、仕方ないし、いま運転に意識していくのが前に進む唯一の方法だ。
 
そう思えたら、力まなくなってきた。
 
そしてもうすこし軽やかに進みたい、と思い漕ぐ姿勢に注目した。
上手いひとはからだの軸やハンドルがあまりブレない。
視線は、私のような焦る近視眼的なものでなく遠くを見ているようだ。
 
漕ぐのが上手い(とあくまで私が感じる)ひとの真似をすると、目から鱗で漕ぐのが楽しいし意識をしっかり自分に向けられる。
 
歩行禅、とは違うが「イマ、ココ」を意識して頭まですっきりする。
考えてみると、自転車を漕ぐのは自分のあしを道具を使って踏み出していくので常に「今、いま、いま」の連続だ。
 
追い抜かれても、いい。
揺らいでぶれても、いい位置に戻っていく。
軽やかに、いまここを漕いでいく。

珈琲との美味しい関係。

小さい頃、珈琲の匂いすら嫌だった。
気持ち悪くなって、敬遠していた。
それなのに、仕事にせざるを得ない時期があった。
付き合ってみると、少しずつ豆の挽きたての甘い匂いにやられる。
どうしようもなく惹かれてしまう。
 
妊娠を機会に、誰もしりあいのいない街へ引っ越した。
そこは、スーパーも商店も何もかも住んでる人からしても半端な街だった。

ただ、唯一遠くからひとが来て休日には並ぶほど珈琲の美味しいお店がある。

都度都度豆を挽くので、お店の前を通るといい薫りがする。
いちど飲めば、コーヒーへの観念が変わるなんて評するひともいるお店だ。
季節のケーキと合わせた月替りの珈琲。
店独自のブレンドは何種類もある。
サンドイッチやパフェまであって、雑誌のセレクトまでぬかりない。
 
授乳が程々になって、ひとりの時間が出来た。
たまには近所で、と一度行ってみてすっかり気に入ってしまった。
コーヒーミルの音やひとの話し声、珈琲のいい香り。
すべて非日常で、ひとり時間に没頭出来る。
 
家でもこんな時間を過ごせないかな。
この味を毎日愉しみたい!
 
そう思って、ツールを調べ始めると豆を挽くミルだけでも電動・手動が何種類も。
ドリッパーやらフィルターも千差万別。
お湯を沸かすポットも、たくさん。
カフェオレもいいな、でもあわあわしたミルクも好き。フォーマーって幾ら? 
 
何がいいか分からない。
余りにもありすぎる。
第一、10人が10人元気がありすぎるという息子の世話をしながらそんな時間あったけ?
アレ、ナニをしたかったんだっけ? 
 
そう思うと、このひとり時間もワンカップの珈琲も愛おしく格別なものに思える。
非日常で、プロに淹れてもらうから美味しい。
それに、自分で入れるにはもう少し子育てが一段落してからでいいかな。
毎日飲むから、良い!とは私にとっては違う味なのだ。 
 
いまは、このペースと距離が美味しい関係なのかもしれない。

モンスターを飼い馴らせ!

自分の怠惰のせいで、少し離れた駅に結婚式参列当日にクリーニング屋に駆け込み。
スーツやらドレスやら袱紗を受け取りに行ってきた。
これまた自分の怠惰で、前日遅くまでご祝儀袋やらなにやら用意して寝不足気味だ。
 
たいだ、たいだ、たいだ……
 
まぁ、いいか。
でも、頭がぼんやりするし滞ってるかんじ。
 
こんなときなにがほしい?
香りが良いものがほしい。
あ、スターバックスのラベンダーアールグレイのティーラテ。

駅のベンチで、ラベンダーとベルガモットの香りを嗅いだら段々気持ちが落ち着いてきた。
ふうとひといきついて、ぴたっと自分が欲しいものを見つけたときなぜか誇らしくなる。
 
寝る前のORIGINSのユーカリの香りのクリーム。
お気に入りの海苔屋さんのふりかけ。
なぜか食べたくなって針生姜たっぷりにしてつくったさんまの生姜煮。
話すと元気になるひとたち。
 
自分のご機嫌をとること。
自分のなかのモンスター(ひとによって不安とか苛々とか様々だけど)を飼い慣らすこと。
 
そのために、「いまどんなかんじ?」と上手く自分を把握すること。
体調も、きもちもふくめて。
20数年生きていて、やっとすこしずつ出来るようになってきた気がする。
 
いまの気分?
土岐麻子のモンスターを飼い馴らせを聴きたくなってきた!

いまなら、泳げる心持ち。

昔から水が苦手だった。
 
プールはもちろん、風呂もカラスの行水よろしくさっとあがる。
何年か前に、夫婦で沖縄旅行した時も海を眺めるばかりで美しい沖縄の海に入ることはなかった。
 
そんな私だから、かなづちだ。
まず、水に浮くことが出来ない。
力が入り過ぎてしまって、ぶくぶくと身体は沈み込む。
 
力が入り過ぎているのは、普段からで力みすぎて肩や首はパンパンに常に張ってる。
そして、つい先日とうとう吐いてしまうほどに痛みを感じてしまった。
 
そんな時、どうしても嫌だった予定が不意に流れてしまった。
あまりに緊張して、構えていたので呆気にとられてはらはらと涙まで出てしまった。
 
そして、気付く。
やらないという選択肢が無かった自分に。
ただただがむしゃらにやればいいと思考停止していた。
嫌だという気持ち、予定が変更になったこと。
その流れに逆らい、力をこめて流れの中に立ち尽くし溺れていた自分。
 
やらないと、自分が決めていい。
やれないと、自分で認めていい。
力をこめて、溺れて沈み込むのでなく決めて引き受けて流れていくこと。
 
そう思えたら、すこし身体が軽くなった気がした。

いまなら、プールで気持ち良く浮くことが出来る気がする。
いまなら、子どもとスイミングに通えるかもしれない。
いまなら、旦那さんと手を取りあってあの真っ青な海に入れるような心持ちだ。
 
本当に出来るかは、また別のおはなしたけど。

本棚は語る

「モノが少ないね」
「赤ちゃんがいる家なのに綺麗ね」
「貴女って合理的よね」
 
これは、我が家に来る人たち(義母やママ友など)が言う感想だ。
 
1LDKで3人暮らしで、子供が産まれて少ししかたっていないのにそこそこモノは多い。
やれ、おむつだおしりふきだ、こどもの洋服だ。
暑さに負けて、抱っこ紐なんて2つも買ってしまった。
離乳食を少しでも作りやすくと、便利グッズをついつい増やしてしまう。
収納が多い家なのと片付けのプロに少しお願いして、少なく見せているだけだ。 

それでも、いままで住んだ家の中で少しすっきりしている今の家がいちばん気に入っている。
出かける前、ルンバくん(子供は走行している姿をみて泣き叫ぶ)を走行させるため床にモノをどかせてフラットにするだけで、ひとりでうっとりしている。

片付くだけで、こんなにこころが平和とは。
 
私の中で、いま「片付け」のことがかなり大切らしい。
 
最近買った無印良品のパルブボードを本棚代わりにしているのだが、本のジャンル別に分けてみると「片付け」や「家事」の本が増えていた。
少し前までは、「ビジネス」「料理」が大半を占めていた。
 
本棚を眺めていていると、私の本棚はよく流動するので余計に感じる。
「いま自分がなにが気になっているのか」「自分の中のコンプレックスはなにか」をまざまざと突きつけられる。
 
勿論、娯楽として小さい頃から色々読んだので小説やら漫画やら絵本なんかもあるけれども。
本を買い集め読了して少したって、自分の向き合いたいところや足りないと思ってる事象に本棚によって気付かされる。
 
そして、本に向き合い、結局自分のなかを掘り下げていき掴んだものが糧になっていく。
 
そうなると、よく、「人間は食べたもので出来ている」と言って食べるものの大切さを聞くけれど本だって言える気がしてきた。
 
わたしたちは、読んだ本で出来ている。
 
レシピ本の数々、もう読まないけれど手放していったビジネス書、困ったとき読むよしもとばななの小説。わくわくする、ミステリたち。
励ましてくれる育児書に、趣味の健康本。
江國香織の綺麗な詩集に、最近つい買う片付け本に、よく読み聞かせる少し破けた息子の絵本。
  
わたしはこんな本で育ってる、と本棚が教えてくれる。