わざわざ怒りに彷徨いにいく、ということ
久しぶりに、100円ショップに行った。
欲しいものにたどり着き、さっとレジへ向かおうとする。
するといい具合に、子供向け番組のセサミストリートのキャラクターの雑貨をぽっと見つけてしまう。
ずいぶん前の私なら、青いけむくじゃらのクッキーの申し子クッキーモンスターに吸い込まれて課金してしまうだろう。
数秒見つめて、さっとレジ。
わざわざ買うものを探すために店内をあてもなく探し回る。
買って飽きるのは明白なのに、買い物をしてしまう。
そうならないために、メモを用意して自分を繋ぎ止めておく。
買い物することを快楽にしないために。
街を彷徨うこともあった。
イエはあったけれどイエが好きではなく、身の置きどころなく帰る場所というかおさまる場所を探していた。
お酒を飲んでみたり、飲めない頃はなにか無駄に食べてしまったり。
そこに立ち寄ることで、虚無を埋めて安心するために。
そして。
インターネットの中で、怒れるなにかを探していた。
ソレは悪くて、私は正義。
怒るのは正当。だから、徹底的に追い詰めるし怒る。
ネタが無くなったら、インターネットのなかを彷徨って怒れるなにかを探す。
怒るのは、発散だった。
怒りは二次感情なんて最近いうけど、そのころは怒ってる自分にすら気づかなかった。
これは正当で神聖で良いことなのだ、と信じて疑っていなかった。
結局、寂しかったり疲れていて情報という刺激を入れて怒りという反応をしてみせて発散して悦に浸ってるだけだった。
気付いたとき、周りのひとは減っている。
正しいことをしてるはずなのに自分のことは、好きになれないまま。
こういう、声を大きくしていくのは疲れた。
そう思って、ポツリと好きなことをやり始めて加速度的に好きだと言い始めて独りでいられることを抱えてられると。
不思議と怒るために彷徨うことはない。
不思議な楽しいひととゆるくつながっていく。