娯楽としての読書

小さい頃から、本が好きだった。
 
休み時間になれば、本をなるべく読んでいたかったし図書館にもよくいた。
 
中学生になると、家の吹き抜けの壁いっぱいの父の本を読み友達と本の貸し借りをして感想を言い合っていた。
東京に出てくると、本の著者に会える!と嬉しくなりミーハーなので講演会だのサイン会だのにも行った。

子育てする前は、よくかばんに本を入れていた気がする。
飲みに行くときも、口紅とハンカチと文庫本があればよかった。 
Kindleが出てきたときは、興奮して勢いよく買ってしまった。
 
いまでは読む時間がめっきり減ったが、それでも子どもが寝静まると少しずつ読み進める。
ひとりのお出かけの時、電車を待っているときにも読んでしまう。
 
時間が空いていれば、読む。
愉しいから、手が伸びてしまう。
 
多くのひとにとっての、ゲーム。
あるいは、スポーツや観戦、手芸、食べ歩き、なにかを鑑賞したり描いたり。
そういうものと一緒だ。
 
それは、自己研鑽でなく娯楽としての読書だ。 
 
つい最近、読書するとしないとでは差が出てくるなんてネットの記事があった。
また、お受験ノウハウを売るママがたくさん読み聞かせをしたというものをみたことがある。
確かに、読書には知識を増やしたり考えを深めたり自分を鍛えるところもある。
 
なんだか世の中には、そういうのが読書だと思っている人もいる気がする。
というか、そういう方が言及しやすいのかもしれない。

ただ、それだけではない読書もある。
ひたすら読んでいて愉しい!という読書だってあるのだ。
 
先が気になりすぎて、ページをたぐる手が焦ってしまったり。
感情移入して、嗚咽がこみ上げたり。
知らない世界がどんどん広がったり。
電車の中なのに、くすくす思わず笑ってしまうものも。
 
自己啓発としての読書は、ありだ。
でも歓びに舵をきっていく、娯楽としての読書だって十分在るのだ。