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「丁寧」は、ある種の趣味

エッセイ
今年初めてのピェンローを作った。
 
ピェンローは、妹尾河童さんがdancyuで発表した白菜鍋のことだ。
材料は、白菜に干ししいたけ、戻し汁、豚肉に鶏肉、春雨、ごま油のみ。
 
シンプルだけど、美味しく作るにはテキトウにやるのではなく色々お作法がある。
入れる材料の順番やら、ごま油の回しかけ方、大量の白菜を40分も煮続ける。
お作法通り、レシピ通り丁寧にやると雑炊まで本当に美味しく白菜半株はあっという間に大人二人の腹におさまる。 
  
シンプルなピェンローですら丁寧につくったら美味しいのだ、他の料理だってじっくり丁寧に作ったら何だって美味しい気がしてくる。
 
かつて料理教室に通っていたころは、お米はしっかり研いだし合わせだしも鍋でしっかりひいていた。
土鍋で栗ごはんを炊いて、山菜が手に入れば天ぷらにして、常備菜を何品も作ってお弁当につめていた。
 
でも、そんな余裕がなく「とにかく食べていく」というときがある。
こと、子供が産まれてから切々にそれを毎日感じる。
食べさせなくては、自分も合間で食べなくては。
時計とにらめっこしては、時間に追われていきどんどん料理は簡略化していき子供が動けば動くほどに調理出来なくなっていく。
 
そんな中で離乳食を始めると、「どこまで丁寧にやるか」の加減がわからなくなっていた。
だしをひく?野菜をひたすら煮てうらごし?でも、生協で冷凍のものもある。
でもでも、ママ友は毎日手作りって言っていたし…
そして、すり減っていき料理の愉しさが手の中からするするこぼれ落ちていく。
 
そんな時、ふと「何処まで丁寧にやるかなんて趣味だな」と思いついた。
「趣味」とは個人が楽しむことを指すけれど、そんな風にどこまでやるかの閾値は個々人の采配で決まる。 

ある種の趣味だから人と比べる必要はない、自分でどこまで突き詰めるか「丁寧」にやるか決める。
どこを目標にするか、なにを信条にするかで閾値は変わっていくと思う。
私は「家族が笑ってること、自分も無理をしないこと」ときめてみた。
ひとのものさしでなく、自分の信条においてどこまで丁寧にやるか。

そう思えたら、少しずつこころが軽くなっていき、また料理の愉しさが戻ってきた。
 
全部作らなくていい、とか元気なときはここまでつくろうとか。
ひとのていねいさ、よく聞くていねいさもその人はこの線引きで楽しんでると受け止められたら急に「いいねぇ」なんて思えてしまう。
 
個人の楽しみ、だから千差万別でいいのだ。