憂さ晴らしと気晴らしと休息と

どうしても観たい映画があって、産後数ヶ月後に旦那さんに息子を託してでかけた。
 
久々の外出に久々の映画に。
頭の中は、映画のことでいっぱい。
ガチガチに授乳しなければいけない胸が張っていた。
それでも、とても晴れ晴れした気持ちになった。
が、久々の電車や人混みにどっと疲れた。
 
そんな無理を数回繰り返し。
気晴らしは、休息にはならないのだとようやく気付いた。 
私のしていた気晴らしは、気晴らしというか刺激を求めすぎていた憂さ晴らしのようなものだったのだ。
 
いくら気晴らしと称して、外出したり何か目新しいものをみたり好きなことをしても身体を休めていない。
からだを休めないと、力が湧き出ないし根本が揺らいでいて前に進みにくい。
刺激ばかり与えていても、からだは元気でないのでアウトプットすらままならない。
むしろ、鬱々や苛々を常に放っているようなもの。
 
休息とは、無理をしないとか早寝早起きとか身体にいいものを程よい量で食べるとか。
 
世間に溢れる「休憩」「発散」「ご褒美」は、気晴らしを指すことも多いが敢えて身体をしっかり休めてみることも必要だ。 
 
早く寝てみる
早く起きてみる
適度にうごく
滋養にいいものを腹八分目に
 
こどものころの「正しい過ごし方」が楽になる方法だなんて、大人になってようやく骨身にしみて分かる気がする。
 

愛の一次言語と井戸掘りと。

何やかんやで、結婚して5年目くらいにはなる。

 

老けてみられることが多いが、これでも若い頃結婚したので新婚当初は衝突ばかりだった。

習慣の違いに戸惑い、ここ数年は生育環境や文化圏の違いに悲しんだり悩んだりしていた。

 

そんな時、ふたりで夫婦に関する本をたくさん読み漁った。

その中で、私の中ではゲーリー・チャップマンの「愛を伝える5つの方法」の『感情的な愛の一次言語』という考え方がたびたび役に立った。

 

ざっくり紹介すると、「ひとはそれぞれ異なる愛の言語を語り、言語学でいうような一次言語が愛情にもある。それは基本的に5つに分類出来る」というものである。

ちなみにその5つについて筆者は、肯定的な言葉、クオリティタイム、贈り物、サービス行為、身体的タッチとしていた。

 

その5つの言語をばっちり読み解かなくては、と最初は躍起になっていた。

が、最近自分の中を深堀りしていけばいくほどその枝葉の部分より「愛のカタチや表現は色々あって、感じ方もそれぞれ」と思えてきたら相手の言うことがさほど気にならなくなってきた。

 

勿論、どうしてと小言が出るときはあるが。

なぜこんな言い方をするのか、とかこういう行動をとっていくのかとか。

若い時分では許せないことが、相手には相手の表現や言語で伝えていると思うと納得がいくことも増えた。

 

前は、相手に合わせることや相手の言動に反応しすぎたりしていた。

察してくれ!になったり妖怪ワタシカワイソウになったりしていたのかもしれない。

自分の言語表現を自由にするのを禁止すればするほど、相手に苛立ちばかり募らせていた。

 

いまは自分の感じ方、言語表現を許しているので一次言語はあれど様々な感情を味わっていく。

相手の表現も味わっていくと、反応に対して反応で返さなくなっていく。

 

これが良い方法かは、まだ結婚生活は長いしわからない。

この方法は、結婚生活以外にも使えるのはなんとなくわかる。

端的に愛情が変容したようにも思うが、すきなことには変わりがないし果てがない。

そういえば、村上春樹河合隼雄との対談本で結婚のくだりに苦しむために井戸掘りをするなんて書いてた。

確かに、欠落を埋めるものと思ったが穴のカタチやどうして欠落したかを教えてもらっている旅をしているようにも思う。

 

半ば、息子も巻き込まれているが。

 

くるしいばかりではないが、井戸掘りは面白い。