応援したいしブログが好きだからブロガーズフェスティバル2016に行く

昔から、誰か応援するのが好きだ。

 

中学生のとき、成り行きで応援団に入った。

最初は、嫌々変に足が出るスコートとダサいTシャツを着て応援してた。

そのうち、声が出るからと人前に出されて見栄えするからと団服を着ていた。

 

声を出して、応援するのは気持ち良かった。

よく競技のルールはわからないけれど、何故か誰か応援するという行為は好きだった。

 

今でも、誰かや何かの応援やどこが好きでどこが良いんだと切々と語ってしまう。

その熱量で、相手を驚かせてしまうときがある。

割りと、好きというテンションが高く興奮する沸点が低いのだと思う。

 

そんな私。

そんな私が中学生くらいから好きなのがインターネットで、大学生くらいからとにかくブロガーが好きだ。

文章読むのが好きなのもあるが、多様なひとがいるとわかるのが面白いのかもしれない。

 

特に、思考を綴るものと研究者やプログラマが書くような毎日淡々と記録するウェブログ

それ以外にもデザインがきれいだったりしても、琴線に触れても、読み続ける。

 

ブロガーズフェスティバルには、主催者の人徳か多彩なブロガーが集まるし好きなひとが出てくるから毎年行ってる。

 

今年は、ホシナカズキさんや小鳥ピヨピヨのいちるさんが出ていてひとりで大興奮していた。

応援の声は出せないけど、Tweetとか話しかけたりして目一杯応援してる心持ちになる。

どの講演も、LTも面白くて濃くて私のいまの日常とかけ離れててわくわくした。

 

あと、ブロガー歴が長い人と今勢いがあるひとが一緒の空間にいてそれを聴けるのは特に贅沢だと思った。

こちらからコンタクトしなければ、知り得ない知見がそこにあった。

 

ただ、どの講演もカタチや言葉を変えて言っていたものがあったように感じた。

 

・量より質

・PVより影響力

Googleは、一貫して質の良いコンテンツをといっている。では質の良いとは?

・ある程度バズるためには、SNSでもブログでもブログデザインにせよ思考、実験、検証の繰り返し

・怒りは伝播していく、それは昔よりあってみんな敏感になっている

・PVやPRの前に、自らが楽しむ

 

いちるさんの、ブログの最大の効用は「自分を深く知ることができる」というのは、最近ブログで思考の振り返りとか成長がわかるなぁと思ってたのでとても響いた。

 

特に、今回LTがどれもレベルが高かった。

ただ、論理や感情で迫ってくる巧みなものがあるのに対し、聞いてるこちらが笑いが止まらなくて楽しくなっていって引き込まれるものが選ばれていったのが私には印象的だった。

それは、結局のところブログはブログを手段としているより楽しみに突き動かされて書いてるものがヒトを引きつけるというこれからのブログ感を教えてくれてる気がした。

 

来年はどんなふうになるのだろう。

ブロガーも、流行がある。

いちるさんやホシナさんともお話したが、伝えるプラットフォームが増えてる中で敢えてブログを選ぶことの意味や良さだったり。

 

そういうことを考えていく愉しみをお土産にもらった。

子鉄とママ鉄とレールと。

息子氏、1歳9ヶ月。

電車にのめり込んでいる。

最寄りの路線の特急列車や通勤電車が好きらしく、ずっと眺めている。

 

寝かしつけの本は、全て電車。

リアリティを好むのか、交通新聞社という出版社の手のひらサイズの電車のシリーズの本をいつも持ち歩く。

 

ついには、子供の鉄道マニア雑誌「鉄おも」という雑誌を購入した。

初めて書店で見たとき、興奮してひと呼吸とまってから「やーまのてせん!」と叫んでレジに走っていった。

手に入れてから、毎日読んでくれと指差しされる。

 

その雑誌に、聞き慣れない単語があった。

「子鉄」「ママ鉄」

どうやら、子供の鉄道好きのことを指すらしい。ママ鉄は、子供と一緒に鉄道にハマっていって好きになるということだそうだ。

 

何だかどんどんのめり込んで、深淵をのぞいてるようにも思える。

が、仕方ない。

可愛い息子の要求には勝てないのだ。

 

喜んでる息子をみて、鉄道博物館のミニ電車運転体験の整理券にダッシュしたり息子のためにハンカチを全部電車にしてみたり私も私でなんだか愉しいのだ。

 

そんなうちの子鉄。

やっぱりおもちゃはプラレールが大好き。

まだ1歳なのか連結は出来ないが、手で押して寝そべりながら動かしている。

 

読み聞かせは得意だが、とにかく創造してなにかするのが苦手なのでプラレールのレールの組み立てにはいつも苦労している。

鉄道博物館京王れーるランドには、体験コーナーがあって家にないような複雑なものが置いてあるともうお手上げだ。

家にあるものでも、わからなくなっていってモタモタして怒られる。

 

レールを敷くのは得意なひとがいるかもしれないが、苦手なひともいる。

 

そして、息子氏は自分でもレールを敷きたいので二人で大騒ぎしてつなげていく。

やっとのことで、レールが完成してもそこは1歳9ヶ月。

 

力いっぱい押しては、「だーっせん!ざーーんねん!(脱線、残念)」と叫んでレールをめちゃめちゃにしてまたやり直していく。

そして振り出しにもどって、寝そべりながらご満悦でレールの上で電車を押している。

 

レールから外れることもあって。

レールから外れないかぎり、壊れそうになるひともいて。

新しく、鉄橋とか踏切もおいてみたりして。

レールも足してみて。

レールを壊してみたりして。

なかには、ずーっとゆっくりレールのうえを静かに走らせるのが好きな子もいて。

 

世の中には時折、欺瞞的なものがレールが外れることがかっこいいぜと煽り立てることもある。

ただ、色々な景色をみていってゆっくりレールの上を走るのがその人らしさなこともあるという多様性ももっていたいなぁ。

そんなことを、パキパキとプラレールを片付けながら思う。

 

愛の一次言語と井戸掘りと。

何やかんやで、結婚して5年目くらいにはなる。

 

老けてみられることが多いが、これでも若い頃結婚したので新婚当初は衝突ばかりだった。

習慣の違いに戸惑い、ここ数年は生育環境や文化圏の違いに悲しんだり悩んだりしていた。

 

そんな時、ふたりで夫婦に関する本をたくさん読み漁った。

その中で、私の中ではゲーリー・チャップマンの「愛を伝える5つの方法」の『感情的な愛の一次言語』という考え方がたびたび役に立った。

 

ざっくり紹介すると、「ひとはそれぞれ異なる愛の言語を語り、言語学でいうような一次言語が愛情にもある。それは基本的に5つに分類出来る」というものである。

ちなみにその5つについて筆者は、肯定的な言葉、クオリティタイム、贈り物、サービス行為、身体的タッチとしていた。

 

その5つの言語をばっちり読み解かなくては、と最初は躍起になっていた。

が、最近自分の中を深堀りしていけばいくほどその枝葉の部分より「愛のカタチや表現は色々あって、感じ方もそれぞれ」と思えてきたら相手の言うことがさほど気にならなくなってきた。

 

勿論、どうしてと小言が出るときはあるが。

なぜこんな言い方をするのか、とかこういう行動をとっていくのかとか。

若い時分では許せないことが、相手には相手の表現や言語で伝えていると思うと納得がいくことも増えた。

 

前は、相手に合わせることや相手の言動に反応しすぎたりしていた。

察してくれ!になったり妖怪ワタシカワイソウになったりしていたのかもしれない。

自分の言語表現を自由にするのを禁止すればするほど、相手に苛立ちばかり募らせていた。

 

いまは自分の感じ方、言語表現を許しているので一次言語はあれど様々な感情を味わっていく。

相手の表現も味わっていくと、反応に対して反応で返さなくなっていく。

 

これが良い方法かは、まだ結婚生活は長いしわからない。

この方法は、結婚生活以外にも使えるのはなんとなくわかる。

端的に愛情が変容したようにも思うが、すきなことには変わりがないし果てがない。

そういえば、村上春樹河合隼雄との対談本で結婚のくだりに苦しむために井戸掘りをするなんて書いてた。

確かに、欠落を埋めるものと思ったが穴のカタチやどうして欠落したかを教えてもらっている旅をしているようにも思う。

 

半ば、息子も巻き込まれているが。

 

くるしいばかりではないが、井戸掘りは面白い。

憂さ晴らしと気晴らしと休息と

どうしても観たい映画があって、産後数ヶ月後に旦那さんに息子を託してでかけた。
 
久々の外出に久々の映画に。
頭の中は、映画のことでいっぱい。
ガチガチに授乳しなければいけない胸が張っていた。
それでも、とても晴れ晴れした気持ちになった。
が、久々の電車や人混みにどっと疲れた。
 
そんな無理を数回繰り返し。
気晴らしは、休息にはならないのだとようやく気付いた。 
私のしていた気晴らしは、気晴らしというか刺激を求めすぎていた憂さ晴らしのようなものだったのだ。
 
いくら気晴らしと称して、外出したり何か目新しいものをみたり好きなことをしても身体を休めていない。
からだを休めないと、力が湧き出ないし根本が揺らいでいて前に進みにくい。
刺激ばかり与えていても、からだは元気でないのでアウトプットすらままならない。
むしろ、鬱々や苛々を常に放っているようなもの。
 
休息とは、無理をしないとか早寝早起きとか身体にいいものを程よい量で食べるとか。
 
世間に溢れる「休憩」「発散」「ご褒美」は、気晴らしを指すことも多いが敢えて身体をしっかり休めてみることも必要だ。 
 
早く寝てみる
早く起きてみる
適度にうごく
滋養にいいものを腹八分目に
 
こどものころの「正しい過ごし方」が楽になる方法だなんて、大人になってようやく骨身にしみて分かる気がする。
 

小骨が喉に刺さるような日が続いたら。

こどものころ。
 
食卓に、焼いたニシンが並ぶと苦々しい思いで睨みつけていた。
骨が多くて、脂っぽいニシン。
 
味は好きだけれど、箸が使い慣れない時期どうしていいか分からなかった。
 
だって、食べていると何だか小骨が喉に刺さっている気がするのだ。
いやいや、食べていくと案の定喉がじくじく気になっていく。
そんな時、焦って水をのんだりつばを飲み込んだりしてかえって気持ち悪くなっていた。
 
イワシも、ししゃもも、アジも味はいいけど何だか小骨がきになる。
 
喉に小骨が刺さるようなかんじ。
そんな、微細で微妙な痛みや違和感。 
 
それは、日常にもある気がする。
 
先送りにしているタスクたち。
自分の奥にある欲求、欲望。
向き合うのをためらう、ちいさな自分。
痛くない、深くかわさない会話。
  
必死に生きて日常とルーティンを重ねていくには、そういう過程も勿論必要だ。
 
そういう毎日を重ねて、悶々とするからこそみえていくものがある。
うんと若い頃は、特効薬ばかり探して刺激にさらされ却って混乱していた。
 
ただ、小骨が喉にいつまでもいるような小さな違和感は緩やかに自分を蝕んでいく。
 
少しでも快適に、軽やかにいくなら。
向き合って淡々と行く中にみえるものもある。
その中で、少し傷んでも日々の積み重ねが味方になる日もある。
 
そうしたらまた、きれいな喉で話したり唄えるのかもしれない。

続:珈琲との美味しい関係


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いつかのブログで、珈琲は外で飲むもののような扱いをした。
 
ところが、だ。
 
我が家に、一気に珈琲の道具が増えた。
ハリオの円錐型のドリッパー。
それに合わせたフィルターに計量スプーン、コーヒーサーバー。
コーヒーポットもハリオ
そして、ハリオのミルクフォーマー。
 
きっかけは、酔狂な旦那さんが完全無欠コーヒーというのを飲みたいというから。
後に、彼は短期間ですごく痩せて、付き合った私はお腹を壊してすぐ中止したのだが。
 
珈琲の話に戻る。

なぜ、ハリオだらけなのか。
適当に選んだ雑誌を参考に、初心者でも淹れやすいというハリオの円錐型のドリッパーにしてみた。
珈琲豆は、愛してやまない近所の私の中では珈琲の概念を変えた美味しい店のものだ。

ところが、だ。
 
そこのお店は、ハリオのドリッパーではないものを使っていた。
そのお店監修のドリッパーとコーヒーポットがあったのだ。
最初、味の違いなどそうないと思っていた。
 
ところが、だ。

ドリッパーの形状でかなり味が変わるのには驚いた。
もちろん、淹れる者の技量は大いに関係するだろうが。
(たまに仕事でも淹れていたはずなのだが、そんなことすっかり忘れている)
それでも、ハリオはスッキリ淹れられるのに対してそこの店のは少し濃厚に抽出される。
 
違いに気付いていくと、こだわっていきたい自分にも気付く。 
 
きっと、豆を挽くミルも買ったらもっと美味しい珈琲が淹れられるにちがいない。
そんな風に妄想して、少しずつのめり込んでいく。 
 
色々調べているが、魔のイヤイヤ期突入の息子がいて手で挽くのは難しい。
電動のミルを調べていくと、小型のものはあまり評判がよろしくない。
 
どうしたものか。
 
仕事の時つかってきた、鈍器のように重たい重たいカリタのミルならきっと、美味しいのだろうなぁ。
なぜ、あの時こんなにハマらなかったのか。
 
きっと、義務ではないから愉しくなっている気もする。
あの時ほど、力を込めていないし。
 
そんなことを今日も考えていくうちに、珈琲が出来ていく。

「ちゃんとしてるひと」より愉しいひとがいい

ずっと、長い間。
 
「ちゃんと」しなくてはいけないと思っていた。
いまのダメな自分から、変わらなくてはいけないと思っていた。
 
ところが、息子が生まれてから余計に不完全なところばかり目立つ。
怒るし泣くし、大声で叱るし、家事は中途半端でちっとも「ちゃんと」なんて出来ていない。

大人になったのに、子供の頃のちゃんと出来なくて叱られている自分がひょっこり顔をのぞかせている。
 
今朝も、ちゃんと出来ないことにメソメソしていた。
三十路手前の、子持ちの女があさから。
 
すると、旦那さんから衝撃の一言が投げられていく。
 
「さっき、テレビで観たよね?

変化しなくていい、手を加えて行くから番組がおかしくなる
しわしわの落語家さんが言ってたよ。
 
変化しなくていい、自然と変化していくから
 
出来なくていい、だって出来ないから
 
ちゃんとしなくて、困らない
困ったら、やればいい
頑張るから、頑張れない
 
ただ息子と仲良くして、テレビみて嵐!と喜んでいればいい。
 
愉しんで笑っていたらいい。
だって、ちゃんとなんて出来ないから。」
 
彼は、繰り返し、出来ないから、と言っていた。

あまりに、出来ないと開き直れない意固地な自分を晒されて驚嘆した。
「ちゃんと」という曖昧な言葉に縛られ続けている事にも吃驚した。
 
第一、ちゃんとって誰のためでどんなモノであるのか。
 
「ちゃんと」出来なかったけれど、いちおう生きられている。
しっかり、今日のきょうまで生きている。
 
そう思うと、「ちゃんとしてるひと」より愉しいひとがいいなと思った。
三十路手前、まだ人生は長いから、愉しいひとでいたくなった。